子育て=親育て(半学半教)RD2994’s diary

息子へ伝えたいこと、自分に残したいことを、人生初めての日記

【RWC2019を振り返る 業務編 ~組織委員会での日々⑤ 最終~】

2017年3月31日(金)は僕にとって特別な日となった。


RWC2015以降、チームに新しいメンバーも加わり、試合会場整備計画作成、チームキャンプ地選定の基準作成や、開催都市運営計画の準備などを進めていった。当時所属していた組織委員会事業部はその業務として大きく分けると三つの柱を持っていた。1つ目は「試合会場」、2つ目が「開催都市(ファンゾーンや交通計画)」、そして3つ目は「チーム(キャンプ地管理など含めてチームの関わる全てとの連携)」。開催都市選定プロセス頃からこのような形を築き上げていき、自分では、大会2年前位から各柱の業務が複雑化、拡充していく中で、各々を独立したチームで運営していく画を持っていた。その時には僕のこの立場での役割は終わり、何か現場に近い所で役割をもらえるように頑張ろうと考えていた。

 

会場整備計画を中心に激しく、厳しい打合せや調整が続いた日々だった。その上に会場だけでなく、開催都市やチームに関する具体的な計画を進めていく時期に入って来て、とにかく忙しかったことは覚えている。しかし、この頃には事業部という理想のチームも出来上がってきており、この忙しさを感じさせないほど充実が続いた日々だった。


もちろん、活字で書くほど楽ではなかったが。途中で体調を崩してしまう仲間もいた(チームの管理者としては失格であろう)。途中で違うチームに手放さざるを得なかったメンバーもいた。組織委員会の黎明期から関わっていた彼女は最後まで組織委員会で与えられた役割を、競技に近いエリアで全うした。そしてもう一人も最後の最後までRWC2019に携わり、この大会が全国に広がる土台を作った内の1人だ。

 

雰囲気や噂は感じていたので、あまり驚きはなかったが、自分がポジションから離れることに関して相談を受けた。もちろんOKをした。良い悪いではなく、大会準備を進めていくためには必要な事であったから、迷いも、感情もなく、受入れらた。その頃の雰囲気からすれば、出向元に帰任することになると思っていた。周りからすれば大会前の半端な時期と思えたかもしれないが、僕としては、日本開催が12会場で実施できそうな目途も見えてきて、自分が出来る事の全てはやった気がしていたので、不思議とざわつきは無かった。


そして3月30日にちょっと驚いた。なんと、言い渡されたのは、引き続き組織委員会での業務を言われた。しかも人生初めての秘書業務。そこから組織委員会を卒業するまでの半年間はとても濃かった。組織委員会を離れる際に自分のメモに、黎明期+事業部の6年間は経験、最後の半年は学びと記している。まさにその通りだった。


秘書としての半年間は、自分の知らない世界を更に覗くことができ、毎日ビジネス書と哲学書数冊分より濃い、人生の指南をいただいた気分だった。

 

話を2017年3月31日に戻すと、自分が考えていたよりも少し早いタイミングであったが、いずれは3つの柱それぞれが1本で立ち、進むことは計画通りであり、その柱を支え、推進していける人材がすでにいたので、整理をつけるのは問題じゃない、はずだった。
でも、不覚にも(人生初)、チームにこのことを告げた時に感極まって、こみ上げてくるものが抑えられず、話を中断してしまった。前向きの事として4月1日を迎えるために淡々と伝えればよいものを、個人の感情がコントロールできず、変な雰囲気をつくってしまった。先に書いた通り、業務的な整理は頭でついていた。でも、31日の午後にチームに集まってもらい、この事を伝えようとしたときに、このチームから離れるのがとてつもなく寂しくなってしまったのだ。学生の卒業式や、偉業を成し遂げたアスリートの引退式でもなく、ただ仕事をしてきた45過ぎたオジサンが涙をこらえきれていない姿はみっともない。戒めのためにここに書いておく。


でも、とにかく寂しかった。まだ同じ組織の中に居られるのに、なんでこんな寂しくなったのだろう。未だに分からないが、僕が、理想のチームであったと断言できる事も少し関わっているだと思う。

 

この7ヶ月後の2017年10月31日、組織委員会での業務最終日には、笑顔で写真に映れている。この時も大勢に声をかけていただき、本当に恵まれていたことを実感し、みんなに感謝した。今だから言えるけど、最終日に、旧事業部のメンバーが声をかけてくれ、メンバーだけでランチして、記念写真を撮った後には、ちょっと一人にならざるを得なかったけど。

組織委員会を離れてから2年、大会の本格的な準備がドンドン進んでいって、組織委員会も数百名体制になり、全員の力の結集で、日本全国、そして世界を感動させた。


本当に素晴らしい大会であったと思う。
その大会にほんの少しでも携われたことは、きっとこれからも誇りであり、自分の節目には振り返ることも多いと思う。

 

最後になってしまったが、この仕事に関わるきっかけをくださった、二人の大先輩方には感謝しきれない。2011年7月からの出向の道をつくってくださった、JTBそして日本ラグビー協会の大先輩、そしてその出向を受けてくださった組織委員会最初の上司。このお二人、無しにはこの経験はなかった。心から感謝している。