子育て=親育て(半学半教)RD2994’s diary

息子へ伝えたいこと、自分に残したいことを、人生初めての日記

言葉に残す、言葉は残る

このブログもそうであるが、息子くんに伝えたいことがありすぎる。

もちろん、その全部が伝えるべき事、伝えて意味のある事かどうかは分からない。

その上、自分の性格上、口頭で伝えようとすると熱量と勢いと偏った想い(思い込み)が暴走して、くどくどと永遠と話してしまう。

なので、口ではなく文字で伝える事を選ぼうと考えた。

文字なら多少なりとも暴走はおさえられる。これまでも息子くんの試合の時などは試合を観戦してその感想をその場で手紙に書いて渡していたが、試合を観ながら書くためやはり想い先行になってしまう。

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ので、今回の文字は、落ち着いて、伝えたい事を押し付けでなく共有できるように、息子くんとの共同ノートをつくる事にした。このノートはお互い書きたい時に書きたい内容を書いて、読みたい時に読んで、発信に対する返信などをすることは義務付けないというルール。もちろん、僕からの発信量が圧倒的に多くなるであろうことは息子くんも了承済み、(多少卑怯ではあるが)抑える努力はするがすこし押し付けがましくなってしまうであろうと前置き済み。

何よりも、ノートの活用にすれば、少なくても僕は何度も下書きをして、校正して、きちんとつくってから書く(伝える)ことができる。

簡単に言えば、このブログがノートへの下書きの様なもので、息子くんへの公開の前に、校正を何度も行なってからノートへ書くことにするということ。

しかもノートという事であれば、口頭で尖がった言葉だとそのほとんどが数秒、数日の内に空気の中に消えて行ってしまう事が、しっかりと残ることになる。

残すべきをしっかりとつくり、残るような形で残す。

息子くんとまた違う形での思い出つくりに取り組みたい。

それでも時間は過ぎていく

暑い日が続く。今年の夏はついに、日本のどこかでは予報で40℃!と聞くことに慣れ始めてしまっている。
COVID-19を騒ぎ始めた時は未だ寒さが残る季節であった。あれから180日あまりが経っているので季節が変わる事は当たり前なのだが、世の中が大きな変化の渦の中、日々の暮らしはシンプル、単調になっているので変化には気づき難くなっているのかもしれない。

息子くんも、短い夏休みが明けて今日から2学期に入った。1学期はコロナ禍を騒ぎ倒して、対応に追われ、振り回されて、終わった。バスケットボールの練習は1回も実施できなかった。自主トレーニングらしきものも無かったのに等しい。

180日間を振り返ると何も積み上がっていない、毎日をくり返していたような生活であったのでは?と心配になる。

元気に学校に行き、宿題や習い事の最低限の事は(おそらく)他人より速くこなして、毎日、元気に地元の公園などで夕暮れまで友達と遊んで帰ってくる。家の手伝いもやって(言えば何でも手伝って)くれる。これで、十分なんだろう。十分どころが、良く出来た息子で、親としてはハッピーである。

でも、本心ではそうは思えない。何も積み上げて行かない、壁にぶつからない、逃げも隠れもしない、普通にまっすぐ歩いていくだけで、teenagerへの入り口を過ごしてよいのであろうか?

あと半年で中学生になる。本人は地元の公立中学校を選ぶつもりのようだ。バスケットボールを続けていきたいので、バスケットボール部の環境が良い所へ進学したいとの希望はあるようだ(でも、これも5年生の後半から言っていたことで、その時の方が熱があったように思える)。しかし、本当にバスケットボールを(一つの)指標にして良いのか?と横から見ていると思ってしまう。

約180日間、学校も不規則であったので1日の内に本人が自由にできた時間は4,5時間はあった。4時間×180日間=720時間の内、息子くんがバスケットボールのために使った時間は恐らく20~30時間(1日に換算すると10分未満)にも満たないであろう(恐らく友達と公園でバスケもどきをやった時間を入れたとしても)。

対して、ゲームやテレビ、マンガに費やした時間は少なく見積もっても500~600時間以上(自由ではない時間にまで食い込んでやっているので)、であろう。そう考えると、自分の人生の分岐点であることを、それしか興味の無い事を指標にするのは本人は幸せになれない気がしている。テレビやマンガの趣味が合う仲間が行く中学に進んで、その輪を広め、深めて行った方が息子くんには幸せなのでは?と思う。

最後に決めるのは本人であるが、人からの見た目を気にして、決めるために必要な情報収集や分析を間違えないように見守り、サポートする必要がありそうだ。

 

ちょっと、複雑な気持ちではあるが、今回は本当に見守り、息子くんに考えてもらい、決めてもらう、事が重要だという事をくり返し噛みしめて、今回は話し合いではなく、ノートをつくり、文章で伝えていくようにしようと考えている。

会話(口頭)だと、その場での想いを、圧をかけて伝えてしまう事が多い。こちらの価値観を押し付けているだけのことに気が付き、訂正しても、その時には息子くんの中に「(親の)正解」があり、その正解を最低限こなしておけば。。。。というマインドセットになってしまう。そんな過ちをしないように、ノートに伝えたい事を書くためには、下書きして、読み直して、余計な事を削いで、まとまったから書けば息子くんへの悪影響は最小限に抑えられるはず。

あと、息子くんとノートを交換する、っていうのもちょっと嬉しいし。

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やるべき事とやりたい事

人間には2タイプいる、〇〇と△△。
この言い方を使いがちで、息子くんにも、「努力がクセになっている人間と努力しない事がクセになっている人間」とか、「やるべき事からする人間とやりたい事からする人間」など、いくつかの持論を押し付けてきた。

今のところ、息子くんはやりたい事を優先するタイプだ。最近耳にする「個性を伸ばすにはよいとか、才能は好きや自由から始まる」という事も一理あると思っているので、必ずしも悪い事とはとらえてはいないが、やりたい事を優先してやる手法で、どんな才能が開花したとしても、人としてやるべき事を出来ない人間になってしまうと、周りとの協調、連携の中で才能を発揮していくのではなく、その才能が誰かにとって有益な道具である時にしか興味を持たれない存在になってしまうと思う。

 

僕が考えている、やるべき事の中には team first という事が強く含まれている。家族やスポーツ、仕事でチームというものはできがちである。自分がやるべき事、出来る事をして、チームの目標に近づいたり、目的を果たしたり、一緒に和んだり、イラだったりして、多くの価値観を他人とも共有できるそんな存在になって欲しいと思っている。

自分がやりたい事を常に押し殺してでもやれ・やるべき、と言うつもりはない。物事は順序とバランスが重要だと思っている。面白い推理小説を結論から読んだら台無しになる。でも、人へのお願い事は結論から話した方が相手の理解度が増す時も多い。推理小説で最初から200頁を使い、見事なトリックで警察をあざ笑っている犯人が、急に最後に交番に自首して、普通に取り調べされて、裁判して、刑務所に入りました、という結末が最後の1頁に書かれていたらどうだろう。お願いをしたい結論を言って、お願いする理由がめんどくさいから、だったらどうだろう。

やはり物事には順序とバランスがあると思う。

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そもそも、やるべき事とは、
・やりたい事があり、だからそれに向けたやるべき事が生まれるもの
・生活や環境の中での役割や、人生のそのタイミングとして必要な事から生まれるもの
がある。

息子くん、言われたらすぐに出来る事が多い。具体的に言わなくても、こちらが、「ねぇ、」とちょっとトーンを変えて声掛けすると、頭を巡らせて気付いてできる事も少なくない。つまり、スキルとしてはやるべき事をこなす十分なものを持っている。

でも、基本は自分に直接的メリット、デメリットがある事以外は興味が持てないようで安定して自分のスキルは発揮されない。(他人の事は言えないが)横着、めんどくさがり屋である事は否めないがそこがこの事の根っ子ではない気がする。

それ以上に気になるのはきっと、未だ、やりたいことが何も無いのだと思う。

好奇心やこだわりは親からも与えられない。与えられるのは、それを育みやすい環境のみ。COVID-19による日常の変化は確実に息子くんの成長に影響している。あるべきものだった、バスケや夏の自然体験を含めた6年生として人生初ともいえる計画的な区切りへ向けた葛藤、失敗、達成が薄く、彼の12歳としての自覚、成長の助力としては不十分なものだと感じている。もちろんCOVID-19によるこの事態をチャンスに変えて、ちがう形で成長した事もあるだろう。が、まずは12歳(小学6年生)としてやるべきことをCOVID-19の大きなインパクトを理由に目を向けないようにしてしまっているのが、何よりも残念に感じてしまう。

親としても、日常の急激な変化において、自分のことで精いっぱいで、息子くんへの環境整備が不十分であったことは反省しなくてはならない。

土台は後からは造れない

COVIDー19を通じて実に多くの人生の初めての、今までの概念の覆しの経験をしている。

50になろうとしている僕ですらこうなので、まだ12の息子くんへの影響は大きいと考えている。

12歳、小学校最終学年、思春期、反抗期への入り口。本来なら学校生活、課外活動、家のこと、クラブスポーツの日常から様々な事を吸収、反発して、嬉しさ、悔しさ、気付き、苛立ち、無関心、好奇心、様々なことをしっかりと味わって欲しい時期だ。

でも、12歳の出だしは、世界がそれを許してはくれないことになった。

彼が大人になった時でも世界はこのことを振り返るだろう。日本人は何かにつけて名称をつけるのが好きだから、その頃にはコロナ世代とかつけられているかもしれない。僕を含めてみんながあの時は大変だった、びっくりした、大きく変わった、などと毎年のようにこのような話を繰り返すことだろう。

当然、息子くんたちを含む、2020年の今、学生だった世代も、かわいそうだったね、大変だったね、と何度も労われることになる。

でも、人生のしかるべきタイミングで日常が送れなかったのはCOVIDー19のせいで、みんなは被害者だから、望んだような人生を与えてあげよう、仕事ができなくても我慢して会社で雇って、給与を与えてくれるように社会は変化するだろうか?

 

なる訳は無い。  と思う。

 

今も、未来も社会は寛容ではない。自然界でも個々の事情はどうあれ、ダメなものはダメとなる。動物も弱っているときに命を狙われて、待ってくれとは言えない。個々は弱いが数の力で天敵を排除する習性に対して、卑怯だ、不公平だ!などとは言われない。動物の世界も我々の社会もそんなには差がない。

どんな状況でもやっている奴はやっているし、先を見ている奴は考える。考えて工夫をすれば何事にもやれること、やり方は必ずあるものだ。

本当にやりたいことなら、必要だと思っていることなら、何度失敗しても自分からやり方を見つけるはず。人から与えられて動くというのは、何となくでは重要なこと、みんなが正しい、必要だと言うことだから、やらなくてはならないこと程度に考えてるだけであろう。

 

COVIDー19の影響を息子くんの日常は真正面からこれ以上が無いほどに強く受けている。同時期に突然の別れや引っ越しなど家族での大きな出来事もあったので最初のうちはバランスが取れていないことをさほどは心配していなかったが、学校が少しづつ再開され、でも日常が戻った訳ではなく、そんな最近を息子くんは飄々と毎日を暮してしまっている。

日常という、本来は最も注目されないものに形が変わってしまっている中で、持ち前の器用さで、何事もなくただ流されるように過ごしているように見えてしまう。

12歳、人生の土台となり得る日常が過ごせるタイミングは人生で1度しか無い。ここの土台が、teenagerとしての土台造りにつながる。

もちろん幼少期の土台が今につながっているのだけど、これは親がつくれるもので、本人にとっては初めての土台造りのタイミングに自覚、葛藤できていない状況になっていることが気になる。

 

この土台は人生で今しか、自分でしか、周り個々人の変化が激しく無いと造りづらいものだと思う。ただでさえ平準化されてきている世の中な上、COVIDー19にてさらに難しい環境となっている今を簡単に乗り切っては欲しくない。

コーチング

昨年の11月頃から、息子くんのミニバスケットボールチームのトレーニングを少し手伝っている。

きっかけは、僕が前にも子供向けのフィジカル・コンディション系のコーチングをしていた事を知ったコーチから、ちょっとやって欲しいという声がかかり、実施したところ、また声をかけてくれ、数回つながり、12月頃からは毎週練習の中で30分程度もらい、継続的なセッションを行なってきた。

バスケットボールスキルのコーチングはできないないので、いわゆる身体能力と運動能力、そしてチームスポーツの基本姿勢に関してのトレーニングを実施した。2月終わり頃から新型ウィルスの関係で練習も大会も無くなってしまい残念だったが、先日、チームの来年度の体制を決める話し合いで、コーチ達から、次年度は正式なコーチとしてのトレーニング、コーチングを、との依頼をいただいた。

僕がやっていることはこのチームには今まで形としてはなかったもので、なかなか受け入れてもらうのも大変だったと思う。そんな中、やってきた事を受け入れてもらう、広げるチャンスをもらえるのは嬉しい事だ。

 

新年度も活動自粛要請が引き続き出てしまったようで、4月からすっきりとは始められない状況ではあるが、このクラブチームの活動を通じて、選手達が自分達で、居場所としてのチームや仲間をつくる事、苦労をしても手に入れたいというものを見つける事、そんな事をしっかりとサポートする計画を立てておく。

チームの40年の歴史でつくり上げて来たもの、このチームにとってのドメインである「バスケットボール」を知らない人間をチームに入れるのには色々な意見があった中での判断だったと思う。その期待に応えられるよう、僕はブレないで、自分が積み上げてきて信じているやり方を全力でこのチームに出し切ろう。そんな気合を後押ししてくれるかの如く、ほんの数ヶ月の付き合いであった6年生(卒業生)から寄せ書きをもらった。

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素直にうれしく、このチームの一員としての初めての宝物になった。

コロナウィルスの影響で今年は桜を愛でる人が少ない。道端での宴会がなくなり、その分地元の名所で、のんびりと鑑賞できるのはありがたい。

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ただ、心なしか桜側も元気がないように思える。いつも見事な姿に圧倒される事が多いのに。

52週間の内、桜の事を考えるの、そろそろかな?見事だなぁ!また来年も楽しみだな、の数週間程度。でも桜は日本人にとっては重要なものになっている。その桜が今年は咲き誇れていない印象を受ける。

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植物と話せる訳でも無いし、そもそも桜を愛でるようになり始めたのもここ数年位の人間の印象なので、どうか?というところもあるが、今年の桜からはチカラを感じられず、モヤモヤしたモノを感じてしまう。

人間社会と同じなのかもしれない、自分の判断ではなく、何となく大勢に流されて、横並びを重んじる。桜達も、近頃は生き辛い世の中になったなぁ、と嘆いているのかもしれない。

そんな中、一本くらい清々しく咲き誇っている桜に会いたいと思いながら、散歩を続ける。

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働き方改革

 今回の新型肺炎の影響で夫婦共に会社はリモートワーキングを許可している状況となった。スタートアップである僕の勤め先は本当にリモートを上手く使う人が多くなった。僕も出勤の頻度は週に2、3回にして自宅リモートをしている。奥さんの会社は、リモートを受入れているが、空気感では出勤していく事が前提のようだ。もちろん、業務内容の違いも大きいのだが、社風として、目に見えているところにいることが働いている事への証明になっているのだろう。

 うちの会社と来たら、最近は子連れ出勤を行なっている。子供は会社で勉強をして、来ているほかの子どもとゲームなどをして、おやつ食べて、とそれなりに楽しめている。受け入れてくれる会社のメンバーも、居ても居なくても当たり前という環境で、気を使ってくれながら、業務への影響は全くない。おそらく、この状況で、僕が数時間営業に出ていても、子供も何ら不安なく普通に過ごしてくれるだろう。それだけでも、この会社への転職は良かったと思える。

 僕の世代でも、もはやこっちのスタイルにどっぷりとはまっていて、良いと思っている。これからの企業がドンドン変わっていくようになってほしい。大手企業は大手なりの苦労や理由はあるだろうが、変われないという理由にはならない。変わっても業務は普通に進むだろうし、社員の満足度は上がってかえって良い結果になりそう。もちろん一部の底辺では悪用や常識外の事をする人間もいるのだろうが、そんな人間基準で考えていたら、損するばかりである。変わる事は難しいが、こんな暗い気持ちの時期に、子供を連れて会社に行く、自分の日常を息子くんに見てもらえる経験が出来て、すこし嬉しい気分だ。おそらく彼には、こんな環境も会社(仕事場)という感触を得る経験となり、彼が働く時の何かの指標になるのかもしれない。 

 政府がいくら旗を振って、改革だと言って、大手企業がお題目だけ唱えていても変わりはしない。今回のきっかけは決して良いものだとは言えないけど、働き方(場所)を変えてもなんとかなるという事がこういう風に広まっていくと、5年、10年で大きく基準値や基本概念が変わるかもしれないという期待は持てる。